上方から江戸へと樽廻船で灘酒が運ばれた時代、
今津の港に常夜灯(灯台)が誕生しました。
平安時代、延喜式にも記載があり
室町時代「西宮の旨酒」と残る、今津・西宮・神戸の沿岸部。
この銘醸地は、灘五郷(東から今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷)と呼ばれ
西宮の名水・宮水と播州の酒造米、
杜氏の技と水車による精米技術など酒質向上への弛まぬ努力により
銘酒の誉れ高い「灘の生一本」が生まれます。
江戸時代のはじめの頃には、米や木綿、油、酒、油、紙などが
菱垣廻船と呼ばれる大型木造帆船により
大坂から江戸へと運ばれるようになりました。
その後、1730年(享保15年)には
酒だけを単独で積む樽廻船が誕生し、
酒問屋は樽廻船問屋を結成しました。
西宮には樽廻船問屋が6軒あり、
今津村の入江からも江戸への多くの下り酒が積まれました。
1793年には米屋伊兵衛により今津の港が整備されます。
こうした当時の今津港の賑わいの中、
1810年(文化7年)、大関酒造の長部家5代大坂屋長兵衛が
樽廻船や漁船の海路安全を願い、私費を投じて今津港に常夜灯を建設したのが、
今津灯台の始まりです。
創建から48年を経た幕末の頃。
長部家6代長部文次郎が航海船の一層の安全を図るため
灯台を再建しました。
1858年(安政5年)6月4日に大坂谷町奉行所に
願い出て、同年10月27日には建設許可を
受けた立札が建てられました。
この立札は現存し、日本遺産の構成に登録されています。
灯台の台石には、香川讃岐の琴平の象頭山中腹にある
海上の守護神、金比羅宮に奉納され
分灯された灯台として「象頭山常夜燈」の文字が刻まれています。
明治維新後も灯台は、毎夜、明かりを灯し続け、
1884年(明治17年)には、先人の灯台建設と
永年の維持管理によって公衆に利益を与えたことが認められ、
明治政府より7代長部文治郎に藍綬褒章
と銀杯が下賜されました。
当時の大関では、毎日夕刻丁稚さんが、油2合をたずさえて
灯台の灯りを点灯するのが習わしでした。
昭和初め関西劇壇の重鎮と評された
上方歌舞伎の劇作家で知られる食満南北氏
(けまなんぼく・明治13年-昭和32年)は、
少年の頃、大関に丁稚奉公しています。
酒蔵の間の薄暗い細道を心細い気持ちで
雨の日も、風の日も、灯台に火を灯しに通った事を
晩年、懐かしい思い出として随筆に残しています。
古くは大阪湾が一望でき堺や淡路島までも望めた港の突堤。
灯台が誕生してから100年以上を経た昭和40年代には
西宮沖に防潮堤ができ今津の海岸からの風景は様変わりしました。
1965年(昭和40年)、107年ぶりに解体復元され、
1968年(昭和43年)には、
航路標識として海上保安庁から民営灯台として正式承認され、
公認名称は「大関酒造今津灯台」となりました。
また、1974年(昭和49年)には、西宮市指定
重要有形文化財に指定され、西宮観光30選にも選ばれました。
灯台は西宮のシンボルというもうひとつの明かりを灯し続けます。
大正期、灯りは電化され、電灯に応じた灯り窓に変わっていましたが、
1984年(昭和59年)には、学術調査により創建当時の姿に復元され、
さらに2013年(平成25年)に、電灯はLEDに変わりました。
2020年(令和2年)、大関酒造今津灯台は、創建210年を迎えました。